自然観察大学ブログ

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狩蜂生態図鑑が出た

田仲義弘先生の 「狩蜂生態図鑑」 が出た。
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すごい図鑑だ。
掲載された写真の数々は、どのカットも決定的な瞬間をとらえた見事なものだ。
しかもただの写真ではなく、狩蜂の専門家が生態解明・確認のために撮った、一つ一つ意義のある写真なのである。(写真を撮ってはじめて解った生態というのが多数あるらしい)

写真だけではない。精密なイラストもすべて田仲先生ご本人による。
自然観察大学のみなさんは、田仲先生の狩蜂への情熱を知っておられると思うが、この本はそのすべてが注ぎ込まれた〝珠玉の図鑑〟なのだ。

中から一点だけ紹介させていただく。(クリックして拡大可能)
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着地に備えて後脚を構えたところだろうか。狩蜂って、理屈抜きでかっこいい。
このコイケギングチバチは体長5mm弱、抱えている獲物はチャタテムシだそうだ。
微小で素早い狩蜂の、その決定的な瞬間を、ピントばっちりで捉えている。
どうです? こんな写真が撮れるなんて、信じられます?

ところで、すべての写真に撮影データが記されていて、各地を飛び回っていることがうかがえるのだが、その中にさいたま市見沼、千葉県我孫子市、東京都野川公園、というのが多数ある。
そう、自然観察大学で観察会を実施している場所ではないか。なんとなく嬉しくなってしまった。

観察会の朝、田仲先生は誰よりも早く来て、フィールドを事前につぶさにチェックする。
そして観察会終了後、カメラを手にまたフィールドへ向かい、誰よりも遅くまで撮影を続けている。
おそらく、その後も継続して現地に通いつめておられることと思う。脱帽である。
私の知っているのは観察会当日の行動だけなのだが、おそらくいつでもどこでもこの調子なのだと思う。
そうなると、田仲先生の家庭平和が心配されるが、仲のよい円満なご家族のようなのでご安心いただきたい。(いまのところですが…)

『狩蜂生態図鑑 -ハンティング行動を写真で解く-』(田仲義弘著、全国農村教育協会、2,500円+税)

最後に「狩蜂生態図鑑」について紹介されたサイトがあるので、以下にあげておこう。
●虫をさがしに… ブログ(jkioさん)  
●自然観察大学HP:本の紹介(鈴木信夫先生)
<追記>
NPO会員の寿原さん、それに唐沢学長が、本書を見て感動し、紹介文を書いてくれました。
※ 単独のURLがないので、一覧表からクリックしてご覧ください。3件が併記してあります。

●全国農村教育協会HP(出版元)  


2012年9月18日、報告:自然観察大学 事務局O
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by sizenkansatu | 2012-09-18 19:09 | その他 | Comments(0)

虫のショート・ショート -第4話-

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第4話
( S F )

黒 蛾



平塚四郎


 世界連邦昆虫学会日本地区代表のP博士は困っていた。連邦学会の依頼で研究中のアフリカクロヒトリの幼虫が、自動飼育装置の中で便秘症状を起こして死んでしまうのだ。手持ちの天敵寄生蜂のストックには野外で放飼試験ができるほどの余裕がなかった。

 かつての害虫類は、画期的な万能殺虫剤 “ウルトラQ” の出現で、20年も前に完全に制圧されていた。年寄りが若者を叱るのに「カに食われたこともないくせに」という慣例語があることでもその徹底さが知れるが、それは害虫だけではなかった。いまや世界中にわずか1万余種の昆虫しか存在せず、そのすべてが人類の保護管理の下に置かれていた。たまに博物館で公開されるかつての多彩な昆虫類の標本を見て、人類はいまさら失ったものの大きさを知ったのである。夏になると放送は在りし日のセミの声を連日流し、年寄りは夏の林で恋を語らった青春の日を回想するのである。

 ところが20年もたって、降ってわいたように、アフリカの一角でマンゴーやバナナの葉を食べている多食性の新種のガの幼虫が発見された。連邦学会は驚喜し、保護増殖のための小委員会が設置され、マスコミもこぞってこの現代の奇跡に飛びついた。

 成虫の体色からアフリカクロヒトリという和名が付けられた。
 昆虫学の高度な技術は、見事にこの害虫の発生量を制御し、わずか2年間で世界中に配布することに成功した。東京でもロンドンでも、最近緑化に成果した南極でも、人びとは樹木に数匹ずつ付いている毛虫を眺めて幸福であった。

 配布から3年目、アフリカクロヒトリは昆虫学者の自信を完全に裏切った。失敗例が皆無だった発生抑制剤が初めて失敗し、各地で思いがけない大発生を起こしたのだ。巨大化した文明を冷笑するかのように、このガはまたたくまに、世界中でただでさえ少なくなった樹木を13種も絶滅危惧種に追い込むほどの空前の大害虫にのしあがってしまった。
 生産が禁止されていたウルトラQが急きょ再生産されることになったが、これも哀れをとどめた。ウルトラQの箱の中から薬まみれの元気な蛹が発見されたのである。
 P博士が人工飼料で保持していた、いまや寄主のいない6種の寄生蜂が脚光を浴びることになった。期待をかけて連邦学会はP博士への膨大な研究費の支出を可決した。
 P博士は気が重かった。最近極度に育ちの悪くなってきたこの寄生蜂が救世主になるとはとても思えなかったからである。研究費を辞退したとき、たちまちこれを美談としてとらえ、いまにもP博士が大害虫をひねりつぶしてしまうように書き立てたマスコミを苦々しく思い返していた。

 話は冒頭に戻る。昆虫学者が百年の歳月をかけ、技術を結集して完成させた自動飼育装置のこれも初めての失敗例であった。アムステルダムの世界最大のスーパーコンピューターにその理由が問われた。しかし、回答はこのコンピューターの能力を超えていたようである。ただ、この害虫に対する野外条件と自動飼育装置内の条件の違いを60項目にわたって指摘してきた。ひとつひとつ、またひとつ、P博士は根気よくこれらの項目を実験で否定していった。60項目の中に幼虫の便秘死亡の謎は隠されていなかった。

 P博士は愛用の日本酒を飲みながらアラスカの黒い海を見ていた。海流変動装置の作用で、このあたりの冬の気候もかなり変わってきてはいたが、風の冷たさが身にしみた。半年もかかって何一つコメントを出さないP博士に対して、手の裏を返したように高まる非難の声から抜け出して、ここへきてから半月になる。
 一方、休眠性もなく、耐寒性の異常に強いアフリカクロヒトリは、冬になっても一向に勢力が衰えず、ついに2種の樹木を絶滅リストの中に放り込んでいた。
 指輪のコールサインが点滅し、仕事を任せてきた助手の明るい声が飛び込んできた。「先生、育ちました! 幼虫が!」。

 2時間後、P博士は再び研究室に立っていた。コンピューターは幼虫の便秘死亡の原因が飼育者の違いにあり、とくにP博士の身体から発する何かの物質が関与していることを伝えてきた。比較の結果、このような物質のうち、助手にはなく、P博士だけにあるものは、わずか30種にも満たないことが判明した。
 意外な事実が判明した。P博士は毎晩 “本物の日本酒” を飲んでいる。日本酒はすでに完全に合成で作られ、特用作物のコメから醸造するのは全く無駄なことであった。道楽のないP博士はただひとつ、この高価な無駄を楽しんでいたのである。助手も無類の酒好きだったが、もちろん吐息の中には酒酵母に由来する物質は含まれていない。
 アフリカクロヒトリの幼虫の便秘因子は酒酵母の中にあった。この物質の抽出・構造決定・大量生産・野外散布までの流れ作業は、まさにコンピューターの独壇場である。
 それから半年、忽然として現れた大害虫は唐突として消えていった。

 この物語は終わる。P博士の寄生蜂は全く役に立たなかった。代わって世界の脚光を浴びたのはP博士自身だったのである。それとても長くは続かなかった。人類はまた目先の利益にとらわれて一つの種を消してしまったのだ。
 抗議の手紙の山を前に、P博士は晩酌を “普通の日本酒” に代えることを考えていた。

(日本昆虫学会50周年「記念大会かわら版」第4号<1967.11>より)
第1話の前書き参照
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本編は戦争直後にアメリカから侵入して大発生を繰り返し、行政的にも大問題となっていた樹木害虫のアメリカシロヒトリのパロディーである。当時、ぼくも伊藤嘉昭・日高敏隆・正木進三氏らの虫仲間と本種の自主的な研究会を組織し、その総合的な研究を行っていた(伊藤嘉昭編『アメリカシロヒトリ-種の歴史の断面』1972、中公新書参照)。一方、ぼくは同じころ台頭してきたSF小説にはまり、読み漁ってもいた。本編はそうしたことが背景になっている。  (完)
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2012年3月8日、報告:自然観察大学 学生 つくば市:けんぞう
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by sizenkansatu | 2012-03-08 12:52 | その他 | Comments(0)

虫のショート・ショート -第3話-

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第3話
(ノンフィクション)

挽 歌

平塚四郎


(写真:河合省三氏提供)

 暗い洞窟の中は、かつての人類がそうであったように、いろいろな動物にとって絶好の隠れ家になっているが、そのほかにも、ここで生まれてここで死んでゆく根っからの洞窟生活者が意外なほどたくさん住んでいる。世界中で1千万種とも1億種ともいわれる昆虫類のいくばくかの種類が洞窟の中を生活のよりどころにしていても何の不思議もない。洞窟昆虫 ― これがこの仲間に付けられた俗称である。
 一口に洞窟昆虫と言ってもその中にはかなり雑多なグループのものが含まれているが、一様に盲目で、小型で、白か薄茶色の淡色で、たぶんに小心の日蔭者であることなどは共通している。その上、大きな特徴は洞窟相互間の交流がその間の“明るい世界”の存在のために制限され、移動は地下水系が頼りで、中には同じ洞窟の中で代々生活を繰り返す種類も少なくないとのことである。こうして長い歴史は洞窟ごとに異常に勢力範囲の狭い “種” を作り出していった。

 洞窟昆虫の専門家の神田が “その洞窟” に足跡を残したのは全くの偶然であった。九州で開催された学会に出席した帰路、列車で隣に座り合わせた老人と雑談中、たまたま話が洞窟のことに及び、“その” 存在を知ったのである。
 老人は瀬戸内海に面したS市で長く小学校の校長をしていたとのことであった。生物にはかなりの興味を持っているらしく、神田の洞窟昆虫の話をたいそう熱心に聞いたあと、S市のそばにも戦前に発見され、ほとんど人の入ったことのない洞窟があることを教えたのである。その洞窟は入口が狭く、中は迷路になっていて起伏も激しく、危ないので入口は市で柵を設けて立ち入り禁止にし、生徒にも常々近づかないように注意してきたという。そして老人は神田に、途中下車してこの洞窟を見てゆくことを熱心にすすめた。「今夜は家に泊まっていただき、明日案内する」という老人の過剰な親切に神田は少々辟易しながらも、かなり食指も動いた。何よりもS市のような大きな都市のそばのそんな便利な場所にほとんど手つかずの処女洞窟があることに興味をそそられた。
 こうしてその夜、老人に輪をかけたようなお人よしの夫人にビールを差されながら、深夜まで老人自慢の“石談義”を聞かされる羽目になったのである。

 その洞窟は小高い丘のむき出しの石灰岩の岩壁に灌木で覆われ、ひっそりと小さな口を開いていた。立入禁止の木札はもう長らく放置されていたと見え、半ば朽ちかけ、入口をふさいだ柵も壊れてその役をなしていなかった。中をのぞいて神田は直感的にそれが危険な穴であると感じたが、収穫がありそうなことも長年の経験が教えていた。同行を主張する老人に入口で待っていてくれるように説得し、老人から借りた丈の合わない古ズボン姿で、単身でもぐりこんだ。
 40メートルくらいまでしか行けなかった。身をかがめ、ときには地面に這って通リぬけてきた道は、そこで10メートル四方くらいの大広間につながったが、広間はそのまま地底湖になっていたからである。懐中電灯の淡い光は湖の周囲の壁に、さらに奥につながっているらしい三つの入口を照らし出したが、準備のない神田はどうすることもできなかった。
 約1時間 ― それが神田の洞窟滞在時間のすべてであったが、老人は待っていたことよりも、いっしょに中に入れなかったことにまだ不満そうであった。収穫は神田が常時持ち歩いているアルコールチューブを半分ほど満たしたにとどまったが、日の光の下で見ると、その中の神田が専門とする10匹ほどの小さなゴミムシは、一見して新種と分かるものであった。

 東京に帰り、老人への礼状とともに、神田がたまたま持っていた唯一の “石” である人頭大の 「佐渡の赤石」 を送った。折り返し老人から石の礼とともに、神田が約束した再度の調査を楽しみにしていることや、次回は自分もいっしょに穴に入りたいことなどを長々と述べた手紙がとどいた。その年のうちに神田はゴミムシの学名に老人の名を付けて発表し、老人を大いに感激させた。
 その後、老人とは何度か手紙の往復が続いたが、再訪の約束は果たせないまま、2年目に脳梗塞による老人の突然の死亡通知に接した。神田が再びS市を訪れたのは、それからさらに4年の年月が流れていた。

 神田は瞠目した。ないのである。石灰岩の丘が一つ、そっくりなくなっているのである。そこはすっかり小高い平地になり、忽然と大団地が出現していた。
 車窓からS市の周辺に立ち並んだ大工場群を見て、6年の歳月を感じてはいたが、あの神秘の洞窟ごと丘が一つ、ブルドーザーに巻き込まれたとは夢にも思わなかったことであった。
 まだできたばかりで入居者もなく、しらじらと立ち並ぶ巨大な建造物群を前に、洞窟探検用の物々しい装備を付けたまま神田は痴呆のように立ちつくしていた。

 工事関係者にも、これからこの団地に住む人たちにも、全く知られることなく、こうして一つの種が地球上から抹殺された。
 かつて存在した事実を数ページの論文と、数個体の標本に残して、長い暗い歴史を静かに閉ざしたのである。

(日本昆虫学会50周年「記念大会かわら版」第1号<1967.09>より)
第1話の前書き参照
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本編のモデルは洞窟学、両生類、およびゴミムシ類の専門家の上野俊一氏。枝葉部を除き、氏から聞いた実話。この新種に氏が付けた和名は「ウスケメクラチビゴミムシ」。この話をある本で紹介したとき、出版社で和名の差別語が問題になり、女性の編集者はウスケやチビやゴミまで含めてこの虫に深い同情を示した。ぼくも当時日本昆虫学会の会合でこの問題を話題にしたが、動物の固有名なので問題はないとウヤムヤになった。その後、現在までにメクラウナギなどの他動物を含めて差別語名は、使用頻度が多い害虫ゆえに、外部からの強い抗議で改名したカスミカメムシを例外として、改称の動きはない。
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2012年3月7日、報告:自然観察大学 学生 つくば市:けんぞう
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by sizenkansatu | 2012-03-07 12:43 | その他 | Comments(0)

虫のショート・ショート -第2話-

d0163696_12482373.jpg第2話(ファンタジー)

幻 屋

平塚四郎

(写真:河合省三氏提供)

 巨大なセレベス島のボネ湾を右に見ながら、われわれT大学生物調査隊の一行12人は、日本から運んだ3台の車でマカッサルから約400キロを北上した。わずか400キロでも、大熱帯林や沼沢地を、あるかないかの小道をたどって一寸刻みに進み、肝心の調査よりも車を通すための土木工事が大半という、悪戦苦闘の連続であった。そしてその作業も限界に近づいたとき、われわれは山岳部の大種族 “トラジャ” の拠点であるマカレ部落にたどり着いた。事故がなかったことが奇跡的ともいえる1カ月の行程であった。
 トラジャはセレベス原住の代表的な種族だがその人口も定かではなく、マカレ部落にしても、われわれ一行を見て住民が隠れてしまうほど文明ずれのしていない仙郷なのである。棟が張り出して見事な彫刻で覆われたトラジャの家屋群は、異常な静まり方と相まってわれわれに妖幻怪奇の世界の迷い込んだかのような錯覚を覚えさせた。
 この部落に調査隊は約1カ月間キャンプを張った。この間、徐々にトラジャの人たちとも言葉が通じなくても心の交流が芽生え、赤道直下の奥地にしては、標高1000メートルの高地だったこともあり、快適な日々が続いた。

 隊員の中に、フーちゃんという男がいた。正しくはT大学植物学教室研究員布施洋三理学士なのだが、本人は職のないまま教室に残ったというだけで、植物学者になるつもりは毛頭なく、卓越した運転技術だけで隊に加えられたという。フーちゃんという愛称には多少軽視の意味も含まれているようであった。もちろんその植物学的な蘊蓄も怪しい限りであったが、不思議にだれからも愛された。怪力の毛むくじゃらの大男に似合わぬ童顔と人の良さ、24歳にもなって子供じみた野次馬根性などなど、調査隊の雑談の輪の中ではいつも中心に彼がいて、こうした隊にありがちな内部のトラブルが一切なかったのも、多分にフーちゃんが緩衝帯となってくれたためである。
 生物調査隊といっても主力は植物班で、昆虫班としては私が申し訳程度に外部から参加しているだけであったが、私の乗る車の運転手をフーちゃんが担当した縁で、私は彼に見込まれ、何かにつけて頼りにされたのである。

 話は先を急ぎ、マカレ最後の夜、「すぐそこ」というフーちゃんにだまされて山道を2時間も歩かされた。彼が私を案内したのはトラジャのみすぼらしい小屋であった。中には娘がたった一人でいて、嬉しそうにフーちゃんを迎えた。私にとって夜、トラジャの、それも娘一人の家を訪問するのは初めてのことで、入口で戸惑っていると、「ナーさん(私の名)ここに座んなよ」と、フーちゃんがまことに鷹揚に言ったものだ。
 トラジャの娘は年頃になると前歯を切る風習があるが、その娘はまだ白い歯をのぞかせていた。まだ二十歳前くらいであろうか。黒い大きな瞳が印象的であった。フーちゃんと知りあったいきさつはわからないが、彼は得意そうに「俺にホレているらしい」という。娘には身寄りがなく、部落でも疎外されているような境遇らしかった。
 それにしても殺風景な部屋であった。古い木のタンスのほかは、フーちゃんの贈り物であろう車のバックミラーが大切そうに壁に掛けてあるだけであった。
 所在ない私を尻目に、フーちゃんはわずかな現地語と手真似を交えて熱心に娘と語り合った。突然娘の目に涙が浮かんだ。彼が明朝の出発を告げたのだ。
 彼は勝手にタンスを開けて私を呼んだ。「ナーさんにこれを見せたかったんだよ」。
私は一驚した。それは古い背負袋であった。形はありふれたものであったが、その表面は無数の甲虫の翅鞘を綴り合せて精巧な幾何模様を構成し、一見して材料は100種を超えていた。暗いランプの下で時代物のその袋は、燦然とトラジャの原始芸術の歴史を物語っているかのようであった。
 「ナーさん、すごいだろう。でも、どうしてもくれないんだ」。思いは私とて同じであった。この地方での私の採集品と比べて、この甲虫たちはなんと絢爛豪華な大型種で満たされていることであろうか。写真機を持ってこなかったことが悔やまれた。
 やがて、私たちは「さよなら」という、淋しげな娘の日本語に送られて小屋を出た。

 帰り道、フーちゃんが立ち止り、シャツのボタンをはずして「ナーさん、持ってきちゃった」と言った。私の顔が蒼白になったのが夜目にも分かったであろう。「返してこい!」と私が怒鳴ったのと、追いかけてきた娘の姿を認めたのはほとんど同時であった。娘は背負袋を両手で抱き締め、後ろ姿の両肩に精一杯の怒りを見せ、裏切りに声をあげて泣きながら月明の中を去って行った。
 フーちゃんにその行為をなじりながら、キャンプに帰り着いたのは午前3時を回っていた。屈託のないフーちゃんの大いびきを聞きながら、私は一睡もできなかった。

 早朝、大勢のトラジャの人びとに見送られ、思い出深いマカレ部落を後にした。見送りの中に、もちろんあの娘の姿はなかった。
 私の横で車を運転しながら、フーちゃんがナップザックを投げてよこした。信じられないことに中身はあの背負袋であった。
 あれから彼はずっと私と一緒だった。私たちの後からあの娘も同じ夜道をたどり、だれかに背負袋を託し、フーちゃんに会わずに帰って行った……。このたった一つの可能性について私は彼に何も聞かなかった。のめりこむように気が重かった。
 「もらっちゃった、もらっちゃった」、フーちゃんはこよなく上機嫌であった。

 蛇足ながら、この背負袋は日本に来なかった。私の知らない間に、小遣いのなくなったフーちゃんが、マカッサルのホテルでオランダ人のオーナーに呉れてしまったのだ。スコッチ2本とのはかない交換であった。

(日本昆虫学会50周年「記念大会かわら版」第3号<1967.10>より)
第1話の前書き参照
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本編はその当時南回帰線直下の別の場所で、ぼくが参加したある動植物調査隊でのよく似た経験に基づく。ぼくにとっては生まれて初めての外国旅行であった。まだ国外調査が珍しかった時代で、NHKから取材班が同行し、帰国後何回にもわたってその様子が放映された。あれから40余年、フーちゃんのモデル君もいまや幽明を異にしている。合掌。
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2012年3月6日、報告:自然観察大学 学生 つくば市:けんぞう
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by sizenkansatu | 2012-03-06 12:54 | その他 | Comments(0)

虫のショート・ショート -第1話-

もう大昔の昭和42年(1967)10月、日本昆虫学会の創立50周年記念大会が上野の東京文化会館で開催された。そのおり、会期中に毎日大会新聞を発行することになり、ぼくがその編集長に任命された。ぼくはその役目をいいことに、くだんの新聞に毎号短い小説を連載した。さすがに実名で書くことをはばかり 「平塚四郎」 のペンネームで登載したが、これがぼくの書いた唯一の小説で、拙い文章ながら当時36歳の自分を思い出して懐かしい。あれから40余年、いわゆる “時効” でもあろうし、当ブログの担当者との雑談の延長であつかましくここに微訂正の上再録させていただくこととした。

2012年3月5日、報告:自然観察大学 学生 つくば市:けんぞう

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第1話
(ノンフィクション)


炎 上

平塚四郎


 N食品株式会社の営業第一係長S氏は、会社の重役会が発展途上国では初めての支社をバンコクに創設することを決めたとき、いち早く転勤を希望した。
 会社は国内需要の伸び悩みから今度の新支社にかなりの期待をかけていたものの、すでに課長昇任が内定していたS氏を送ることにはかなり難色を示した。しかし、最低任期5年間という条件で、だれもS氏ほどの積極性を示さなかったことと、語学が堪能だった強みから、結局は支社長という異例の抜擢でS氏の赴任が決定した。

 4年経った。S氏の手腕は見事に立証され、バンコク支社は会社の売り上げの3割を占める、押しも押されもしない大支社に成長していた。しかし、それはS氏の営業マンとしての天才的な能力によるもので、S氏自身はそれほど粉骨砕身という毎日ではなかった。S氏はどんな僻地へも自ら率先して営業に出かけた。この支社長の陣頭指揮がどれだけ若い社員を奮い立たせたことであろうか。また、支社長の僻地出張は不思議なほどつぎつぎに成功していった。商品名がむしろ寒村から逆に都会地に伝わったことでもS氏の働きのほどが分かろうというものである。それでもなお、S氏は“粉骨砕身”の毎日ではなかったのである。

 そもそもS氏がバンコク行きを希望したのは、独身の気安さでも、会社の存亡を担う大それた意志でもなかったのである。驚いたことにS氏は蝶が採りたかったのである。とくに、東南アジアに生息し、鳥と間違えて鉄砲で撃たれたとの言い伝えのある、大きく美しいトリバネアゲハの仲間が飛んでいるところを見たいという(S氏が物心ついて以来の夢でもあったが……)、社長が聞いたら腰を抜かしそうなことがその理由であった。こうして4年。S氏の軽金属製の6個の大型トランクの中は、紙包みの蝶の標本で一杯であった。
 そして見た。マレー半島でアカエリトリバネアゲハの群飛を、ニューギニアで世界最大のアレクサンドラトリバネアゲハの雄姿を。おまけにサンプルのインスタント食品はどこに行っても、S氏自身がびっくりするくらい好評であった。

 いまや、N食品バンコク支社はS氏がいなくても万全の体制が整えられていた。最近の日本からの手紙では、S氏が5年を待たず、本社の営業部長に呼び戻されるという噂をひんぴんと伝えていた。
 S氏は今度の出張がおそらく支社長として最後の遠出になることを感じていた。そこで、まだ一度も行っていないスマトラ西部の熱帯林で、思い出深い南の蝶たちと決別しようと思った。
 同行を申し出る社員に、一人でものを考えたいと言い含め、いまS氏は目的地の熱帯林の開けた小さな河原で、インスタントニギリメシをマズそうに食べていた。これだけはあまり売れなかったなあと、つかの間の感慨にふけっていたが、そのとき、きらきら光る白っぽい物体が目の前を横切った。

 いつニギリメシを下に置き、いつ捕虫網を手にし、いつそれを振ったのか、手練の技は水もたまらず、その物体を見事にとらえていた。
 案の定、それは1匹の蝶であった。ゆっくりとそれを手にしたとたん、S氏の血は逆流した。手は震え、立っていることすら苦痛であった。その蝶は、白い翅の中央に金属光沢の青い帯が走り、裏面はルリ色に輝いていた。そして全体はトリバネアゲハの特徴をことごとく備えていた。
 信じられないことであった。トリバネアゲハの新種がいま手中にあるのだ。この仲間で最も珍しいといわれるブーゲンビル島産のものは、最近パリの競売で100万円以上の値がついて話題になったが、一体、この新しい種類はどのくらいの価値があるものなのか。もちろんS氏はそんな品の悪いことは考えない。ただ、世界が驚くこの新種を自分が発見した光栄に、涙を流して感動していた。早く帰らなければ……。

 夜の無風のバンコク空港に飛行機は静かに着陸しようとしていた。後部座席のS氏はベルトを締めて宝物を納めた小箱を両手でしっかり抱えていた。
 軽い衝撃―S氏にはそう思えた―をおぼえたとき、飛行機はS氏の座席のすぐ前から真二つに分かれ、次の瞬間、前半部ははるか前方で黄色い炎に包まれていた。
 いったい何が起こったのか。S氏にはわからなかった。紛失した小箱を闇の中で探し求めていたのである。
 「死者36名、生存者3名」の新聞記事を見たとき、はじめて身の凍る思いを、奇跡的な生存を身近に感じたのである。

 明るい社長室で、部長の辞令を受け、社長からねぎらいの言葉をかけられながらS氏はつぶやいた。「だれも信じないだろうな」。それは思いもよらず若くして部長に昇任した自分に対してだったのか、それとも……。

(日本昆虫学会50周年「記念大会かわら版」第2号<1967.10>より)
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本編のモデルは、在野のチョウの生態研究家として著名な五十嵐邁氏(1926‐2008)。氏は実際にタイで航空機事故に遭遇し、九死に一生を得ている。これを読んだ本人の感想は「大変光栄です」だった。また、当時アマチュア蝶界の指導者であった磐瀬太郎氏(1906‐70)は、大層喜び、「この記載に基づいて幻のトリバネチョウの模型を作って披露しようと思った」と語った。
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by sizenkansatu | 2012-03-05 19:39 | その他 | Comments(0)

我が家のムササビ

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今我が家にムササビがいます。職場で保護中なのですが、お母さんやってます。
カーテンレールから飛び立ったところです。
お尻の穴丸見えでハシタナイですが、女の子です。
(左手に座布団、右手にカメラなので、ピントが合っていなくてスミマセン)

昨年夏に路上で保護して以来、1ccの注射器で3時間毎にミルクを与えるところから始めて、今では立派な娘に成長しました。
肩に乗ってきて、私をお母さんと理解しているしぐさは野生動物とは思えないほどで、本当に可愛くて、自宅新築時に付けた、若干高めのカーテンが引きつってしまっても、顔や手足が爪で傷だらけにされても、ウンチをされても、なぜか許してしまいます。

本来野生動物は動物園でしか保護できないのですが、“放野を前提に一時的な保護であるなら良い” と許可を得て世話をしているところです。暖かくなったら、野外で森に帰す訓練を始める予定です。

でも最近、人間に育てられた野生動物を、「森にかえす」と良い事のように言っているのは人間の一方的な考え方なのかと思うようになってきました。
これは、情がうつって帰したくないのではありません。
カーテンレールから飛ぶのではなく、森の中で樹から樹へ、いい彼と出逢ってお母さんにもなってほしい。
だけど、このように育てられたムササビにとって、本当の幸せってなんなのだろうと。

考え過ぎていますかねぇ

2012年2月2日 自然観察大学 長野県支部M.O.

事務局Oより注:M.O.さんは本業で某公立公園の管理をされている方です。
M.O.さんへ:ご投稿ありがとうございました。ピントなんて気にならないほどの決定的な写真です。また続報をお待ちしています。
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by sizenkansatu | 2012-02-02 10:41 | その他 | Comments(0)

マジックハンド

近所の道具屋で、面白いものを見つけた。
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“指し棒” と同じつくりで、縮めたときは15cmほどで、伸ばすと1m弱。

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頭はミニ熊手状。伸びる孫の手といった印象だ。
この “タタズマイ” が気に入って、即座に購入してしまった。

野外観察で高所の枝を引き寄せるのに重宝するし、観察会では “指し棒” にもなる。
見沼田んぼの観察会では、H井先生にご利用いただいた。
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お気に入りのご様子。

きのこの生態観察』でも大活躍。表土をかき分けて菌糸を探すのに、N田先生にご利用いただいた。
観察会でお世話になったK林さんも、その後購入した由である。この道具はK林さんの琴線にも触れたらしい。

この “伸縮孫の手” は、ファクトリー・ギアという道具屋で扱っている。
http://www.f-gear.co.jp/shop/shitamachi/index.html店構えは小さいが、本格的な(マニアックな)道具が所狭しとならぶこの店で、伸縮孫の手は店頭に林立させて華やかに陳列されている。ちょっと不思議な道具屋さんだ。

ところで、そもそも “伸縮孫の手” は何の道具なのか?
商品知識が豊富な店員さんによると…
「これはですね、車のエンジンルームなどの狭い隙間に落としてしまったボルトなどを引き寄せる道具です。磁石の効かない非鉄性のボルトは、これでないと捕れません。」
嬉々として、親切丁寧な説明が始まった。
「仕入れたものの、売れるかどうか心配だったんですが、意外とよく売れています。使っているお客さんの評判もいいですよ。ただ、みなさん作業用のツナギを着た状態で背中を掻くときに重宝しているようなんですけどね。」

2011年11月3日、報告:自然観察大学 事務局O
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by sizenkansatu | 2011-11-03 17:23 | その他 | Comments(0)

小春日和

きのふにもまさる小春の一日かな (路幸)

・・・なんちゃって。
夏日だった昨日に続いて今日ものどかな小春日和でした。

d0163696_11232877.jpg

陽射しにつられてぶらぶらしていたら、タチバナモドキ(?)の若枝にアブラムシが群がり、そのアブラムシに蟻が群がっていました。蟻の動きはけっこうせわしないですね。

以上、ニュースにもならないようなニュースです。

2011年10月26日、報告:自然観察大学 品川駐在 小田
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by sizenkansatu | 2011-10-26 22:21 | その他 | Comments(0)

臆説「農作物」

<事務局より>
つる植物の話-5 「アレチウリ」 http://sizenkan.exblog.jp/14685102/ の余談で「農作物」の読みについて申し上げたところ、コメントで活発なご意見をいただき、さらには下記のような投稿をいただいた。自然観察とは離れたテーマだが、以下のとおり紹介させていただく。
駐在員の小田さん、ありがとうございました。

………………………………………………………

1.平安時代初期の「作物」 

 「種々作物」(「続日本紀」(797年)、「掘採之銅乏少、作物之数欠有」(『三代格』841年)、「相模国…中男の作物、紙・熟麻・紅花・茜・短鰒・堅魚・海藻」(『主計尞式』)等…
 「作物」をどう読んでいたのでしょうか? 
 古語辞典によれば、「漢語としては『さくぶつ』か。『もつ』は慣用音。」だそうです。
 では、「作物」とは何だったのでしょうか?
 古語辞典によれば、「人手で作ったもの。農産物・海産物、あるいは工芸品などに広くいったが、のちには農産物に限定していうようになった」とのことです。『三代格』の「作物」が銅製品であることは明らかです。『主計寮式』では種々の農産物や水産物ですね。
 少なすぎる資料からの大胆すぎる臆説として以下のことが言えないでしょうか。「作物」とは、
①はじめ、「人間の手が加わって生産された(=作られた)すべての物」を指していたが、
②やがて、農産物・水産物・鉱産物等を指すようになった。
③当時にあって「作物」とは、税制上の用語であった。律令制国家の下では、「租」(稲)は主税寮で扱われ、主計寮が扱うのは「庸」と「調」だった。したがって、「作物」とは、「租」(稲)以外の、「庸」「調」として扱われるすべての生産物を指していた。稲も「庸」として扱われる場合は「作物」だったのかもしれない。
 「作物」という言葉は、律令制国家の過酷な収奪に苦しむ民衆の汗と涙を体現した言葉だったのかもしれません。


2.江戸時代の「作物」

 「向島は百姓地だから、些(ちっと)は作物(サクモツ)のことも弁(わきま)へざあなるめへ」(滑稽本)いつの頃からか、呉音による「サクモツ」になっていますね。
 また、その意味は、「庸」「調」で扱われる農産物・水産物・鉱産物等すべての生産物を指していたものが、いつの間にか明らかに農産物に限定されています。これは、元来が「税」を表す言葉であったため、「税」の中心が農産物になった歴史を反映してのことであろうと思われます。また同時に、産業の中心が農業であった産業構造を反映してもいるのでしょう。
 注目すべきは、この用例から見る限りでは、つらい重い年貢、というニュアンスは皆無で、一般的に農作物を指しているだけでなく、読みようによっては、「作物」に対する一種の親しみ・愛着そして尊敬さえもが感じられなくもないことです。「作物」という言葉が「税・年貢」という意味から離れて一般化したこと、そのことによって、消費者の親しみと愛着の対象になっていったことが窺えます。それは生産者の立場から言えば「誇り」の対象でもあったのではないでしょうか? このことを知って私は嬉しくなりました。


3.明治時代の「作物」

 「さくもつ」
「狐も一生懸命、畠の作物(サクモツ)を蹴散らして・・・」(巌谷小波『こがね丸』)。江戸期の読みと意味をそのまま継承しています。『言海』(1866年)でも同様です。また『言海』には「農作物のうさくもつ・のうさくぶつ」はありません。この時代、この言葉はまだなかったのでしょう。富国強兵殖産興業の時代にあってもなお、「作物さくもつ=農作物」はすべての生産品の代表としてその名称を占有していたわけです。


4.大正時代の「作物」

 『言泉』(1921年・大正10年)では少々ややこしくなってきています。
 「さくもつ:田畑に植ゑて作るもの」江戸時代・明治期の栄光をなおも保持してはいますが、
 「農作物のうさくもつ:作物(さくもつ)に同。」「農作物のうさくぶつ:農作物(のうさくもつ)に同じ」という項もあります。これらについてはどう考えればいいのでしょうか?

 まず「農作物のうさくもつ」。なぜ新たに「農」が付いたのでしょうか? 
 一つ考えられるのは、識字人口の増大です。識字人口が少数だった頃は、耳で「さくもつ」と聞いて「農作物のことだ」と素直に理解していたはずです。しかし、字とその意味を知った人の中に「『作った物』と言えば他にもいろいろあるじゃないか。明確にするために『農』を付けようぜ」と思った人がいた可能性は十分あります。そしてまた、いったん「農作物のうさくもつ」という言葉が使われ始めるや、「『作物さくもつ』だけで『農作物』を意味するのだ」というこれまでの慣習的な理解は急速に失われていったにちがいありません。
 もう一つ。資本主義経済の急速な勃興の中できわめて多様な諸産業諸商品が誕生し、本来の意味での「作物つくったもの」を細かく分けて言葉で規定する必要も強くあったろうと思います。
 「農作物のうさくぶつ」これについては後で触れます。


5.現代

 「作物さくもつ」
 「作物さくもつ」だけで「農作物のうさくもつ」を指す、という古くからの意味は、「園芸作物」「換金作物」「救荒作物」「工芸作物」「商品作物」「飼料作物」「繊維作物」「染料作物」等の形で現代も生きてはいます。しかし一方、明治以降の資本主義経済の大発展と識字人口の飛躍的な増大の中で、「作物さくもつ」だけで農業生産物を指す、という意味はかなり薄れてきており、このことを知らない人も増えています。

 「農作物のうさくもつ」
 大正期の誕生時の事情がさらに強まって定着したのでしょう。
なお、現代の辞書ではこの言葉は正当な市民権を与えられていません。おそらくこれは「『作物さくもつ』だけで『農作物』を指すのだから、『農』は不要なのだ。重複規定なのだ!『危険が危ない・頭痛が痛い』とおんなじだ!」という理由から、辞書執筆者が見識を示したのでしょう。

 「農作物のうさくぶつ」
 この言葉は現代の辞書では市民権を得ています。おそらく「工作・物」「創作・物」「著作・物」と同じ構造の言葉として辞書執筆者が認めたのでしょう。しかし私はこの考えには賛成できません。なぜなら「林作物りんさくぶつ」「水作物すいさくぶつ」「海作物かいさくぶつ」等がないからです。「農作物」という表記を見て「のうさくぶつ」と読み間違え、これが普及定着していき、それが後知恵で「工作・物」「制作・物」系に取り入れられたのではないでしょうか? 論証はできませんがいかにもありそうなことです。しかし多勢に無勢。最早後戻りは無理でしょう。

6.活発闊達な論議を

 しかし、「歴史的に正しいかどうか」とか「多数派はどれか」とかの問題とは別に、「個人の言語感覚」「こだわり」の問題もあります。おそらく、この「個人の言語感覚」が多数寄り集まって最終的な多数派を形成しつつ、また新しく生まれる個人の言語感覚が多数集まって新たな多数派を形成していく、というのが言葉の歴史なのであろうと思います。
 大切なのは、この変化の流れを認めつつも、「ものわかり」がよくなってはならない、ということのような気がします。なぜなら、言葉に対するこだわりの背後には、それを使う人一人一人の思い -大げさに言えば感性や思想- が横たわっているからです。一人一人が個人の言語感覚にこだわり主張する、それらがわいわいがやがやああでもないこうでもないと交わされる中で最終的には新しい多数派が形成される、ということが必要であるように思います。これは、大げさに言えば、歴史の中における個人の主体性の問題、逆に言えば、個人が主体的に歴史の創造に関わろうとする意志の問題であるように考えます。Oさんたちの居酒屋会議はその栄えある歴史参加の一幕であったわけです。願わくば、「農作物」論争が日本の農業の豊かな発展に貢献しますように。以上。

2011年10月23日、報告:自然観察大学 品川駐在 小田
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by sizenkansatu | 2011-10-24 13:16 | その他 | Comments(5)

紀伊半島を襲った台風12号

台風12号では、紀伊半島を中心にたいへんな被害がありました。
被災されたみなさまに、心よりお見舞い申し上げますとともに、
亡くなられた方々のご冥福をお祈りいたします。
救助・復旧などに尽力されているみなさま、ほんとうにご苦労様です。

わたくしごとですが、先月紀伊半島の現地を見てきたばかりということもあり、報道で次々に明らかになっていく被災地の状況を見て、水の恐ろしさを知らされました。
今回の台風12号は、紀伊半島で2400ミリ以上の降雨量だったそうです。
1か月前の台風6号で850ミリの雨があったばかりなのに…
生物を育む水の、別の顔です。
自然の強大な力を実感しました。

2011年9月9日、報告:自然観察大学 事務局O
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by sizenkansatu | 2011-09-09 20:55 | その他 | Comments(0)

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