虫のショート・ショート -第4話-
第4話
( S F )
黒 蛾
平塚四郎
世界連邦昆虫学会日本地区代表のP博士は困っていた。連邦学会の依頼で研究中のアフリカクロヒトリの幼虫が、自動飼育装置の中で便秘症状を起こして死んでしまうのだ。手持ちの天敵寄生蜂のストックには野外で放飼試験ができるほどの余裕がなかった。
かつての害虫類は、画期的な万能殺虫剤 “ウルトラQ” の出現で、20年も前に完全に制圧されていた。年寄りが若者を叱るのに「カに食われたこともないくせに」という慣例語があることでもその徹底さが知れるが、それは害虫だけではなかった。いまや世界中にわずか1万余種の昆虫しか存在せず、そのすべてが人類の保護管理の下に置かれていた。たまに博物館で公開されるかつての多彩な昆虫類の標本を見て、人類はいまさら失ったものの大きさを知ったのである。夏になると放送は在りし日のセミの声を連日流し、年寄りは夏の林で恋を語らった青春の日を回想するのである。
ところが20年もたって、降ってわいたように、アフリカの一角でマンゴーやバナナの葉を食べている多食性の新種のガの幼虫が発見された。連邦学会は驚喜し、保護増殖のための小委員会が設置され、マスコミもこぞってこの現代の奇跡に飛びついた。
成虫の体色からアフリカクロヒトリという和名が付けられた。
昆虫学の高度な技術は、見事にこの害虫の発生量を制御し、わずか2年間で世界中に配布することに成功した。東京でもロンドンでも、最近緑化に成果した南極でも、人びとは樹木に数匹ずつ付いている毛虫を眺めて幸福であった。
配布から3年目、アフリカクロヒトリは昆虫学者の自信を完全に裏切った。失敗例が皆無だった発生抑制剤が初めて失敗し、各地で思いがけない大発生を起こしたのだ。巨大化した文明を冷笑するかのように、このガはまたたくまに、世界中でただでさえ少なくなった樹木を13種も絶滅危惧種に追い込むほどの空前の大害虫にのしあがってしまった。
生産が禁止されていたウルトラQが急きょ再生産されることになったが、これも哀れをとどめた。ウルトラQの箱の中から薬まみれの元気な蛹が発見されたのである。
P博士が人工飼料で保持していた、いまや寄主のいない6種の寄生蜂が脚光を浴びることになった。期待をかけて連邦学会はP博士への膨大な研究費の支出を可決した。
P博士は気が重かった。最近極度に育ちの悪くなってきたこの寄生蜂が救世主になるとはとても思えなかったからである。研究費を辞退したとき、たちまちこれを美談としてとらえ、いまにもP博士が大害虫をひねりつぶしてしまうように書き立てたマスコミを苦々しく思い返していた。
話は冒頭に戻る。昆虫学者が百年の歳月をかけ、技術を結集して完成させた自動飼育装置のこれも初めての失敗例であった。アムステルダムの世界最大のスーパーコンピューターにその理由が問われた。しかし、回答はこのコンピューターの能力を超えていたようである。ただ、この害虫に対する野外条件と自動飼育装置内の条件の違いを60項目にわたって指摘してきた。ひとつひとつ、またひとつ、P博士は根気よくこれらの項目を実験で否定していった。60項目の中に幼虫の便秘死亡の謎は隠されていなかった。
P博士は愛用の日本酒を飲みながらアラスカの黒い海を見ていた。海流変動装置の作用で、このあたりの冬の気候もかなり変わってきてはいたが、風の冷たさが身にしみた。半年もかかって何一つコメントを出さないP博士に対して、手の裏を返したように高まる非難の声から抜け出して、ここへきてから半月になる。
一方、休眠性もなく、耐寒性の異常に強いアフリカクロヒトリは、冬になっても一向に勢力が衰えず、ついに2種の樹木を絶滅リストの中に放り込んでいた。
指輪のコールサインが点滅し、仕事を任せてきた助手の明るい声が飛び込んできた。「先生、育ちました! 幼虫が!」。
2時間後、P博士は再び研究室に立っていた。コンピューターは幼虫の便秘死亡の原因が飼育者の違いにあり、とくにP博士の身体から発する何かの物質が関与していることを伝えてきた。比較の結果、このような物質のうち、助手にはなく、P博士だけにあるものは、わずか30種にも満たないことが判明した。
意外な事実が判明した。P博士は毎晩 “本物の日本酒” を飲んでいる。日本酒はすでに完全に合成で作られ、特用作物のコメから醸造するのは全く無駄なことであった。道楽のないP博士はただひとつ、この高価な無駄を楽しんでいたのである。助手も無類の酒好きだったが、もちろん吐息の中には酒酵母に由来する物質は含まれていない。
アフリカクロヒトリの幼虫の便秘因子は酒酵母の中にあった。この物質の抽出・構造決定・大量生産・野外散布までの流れ作業は、まさにコンピューターの独壇場である。
それから半年、忽然として現れた大害虫は唐突として消えていった。
この物語は終わる。P博士の寄生蜂は全く役に立たなかった。代わって世界の脚光を浴びたのはP博士自身だったのである。それとても長くは続かなかった。人類はまた目先の利益にとらわれて一つの種を消してしまったのだ。
抗議の手紙の山を前に、P博士は晩酌を “普通の日本酒” に代えることを考えていた。
(日本昆虫学会50周年「記念大会かわら版」第4号<1967.11>より)
※ 第1話の前書き参照
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本編は戦争直後にアメリカから侵入して大発生を繰り返し、行政的にも大問題となっていた樹木害虫のアメリカシロヒトリのパロディーである。当時、ぼくも伊藤嘉昭・日高敏隆・正木進三氏らの虫仲間と本種の自主的な研究会を組織し、その総合的な研究を行っていた(伊藤嘉昭編『アメリカシロヒトリ-種の歴史の断面』1972、中公新書参照)。一方、ぼくは同じころ台頭してきたSF小説にはまり、読み漁ってもいた。本編はそうしたことが背景になっている。 (完)
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2012年3月8日、報告:自然観察大学 学生 つくば市:けんぞう
by sizenkansatu
| 2012-03-08 12:52
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